『ハコニワ』早村友裕さま

 

第一話

 しんと静寂に満たされた庭を、まあるい月が見下ろしている。
 真っ白な壁に囲まれた小さな日本庭園の中には風もなく、空間はその場だけで完結していた。猫の額ほど、落ち着いた大きさの庭に無駄なものはない。ひっそりと木々の奥の茶室へと続いていく露地に並ぶ飛び石たちが、揺れる木々の影を映しながらやんわりと月明かりに照らし出されているだけだった。
 そして、
天満月アマミツツキから注がれる橙色の柔らかい光の中に一人の少女が立っていた。
「これで107回目……」
 純和風の茶庭にしっとりと佇むには、あまりに奇抜すぎる紅の髪をした少女は、長い前髪を手でかきあげた。腰ほどまである鮮やかな紅は、月の光を浴びて艶やかに煌めいた。どちらかと言えば気の強そうな印象を与える目には、髪と同じ紅色の瞳がおさまっている。
 身に付けた大人しい紺色の着物には、紅の髪と瞳がよく映えた。
「今日も、うちはお祭りの音をここで聞くしかできないんやね」
 もうすぐ、この白色の壁越しに
祭囃子マツリバヤシが響きだす時間だった。
 そのお祭りの賑やかな様子を心の中に浮かべながら、少女は請うように満月を見上げた。

 遠くで、どどん、と祭りの太鼓の音がした。




巴恵トモエお嬢様、お目覚めの時間です」
 抑揚のあまりない男性の声がした。
 聞きなれたその響きに、布団の中に丸まっていた少女はもぞもぞと這い出してくる。腰ほどまでもある紅の髪が四方に飛び、年頃の少女としてはかなり悲惨な見栄えだ。
 おさまらない髪を手櫛で解きながら、
巴恵トモエと呼ばれた少女は布団を担いだまま声の主を見上げた。
 そんな巴恵の姿を、表情の少ない、整った顔立ちをした男性が見下ろしていた。
「……おはよう、
檜垣ヒガキ
「朝食をここへ置いていきますね。昼までに課題を終わらせておいてください。午後から採点して一緒に復習しましょう」
 にべもない言葉が返され、巴恵は一瞬間をおいて尋ねた。
「いま、なんじ」
「9時です。早く起きないと課題をこなす前に昼になってしまいますよ」
 きっちりとスーツを着込んだ
檜垣ヒガキは、見た目と声、そして表情だけでなく口調も抑揚なく告げた。
「うぅー……」
 時間を聞いて、巴恵はもぞもぞ布団を出て、着替え始めた。
 寝間着を脱いで、男性の前だというのに恥ずかしげもなくテキパキと着物を身につけていく。器用に口で腰ひもをくわえ、掛け衿をしっかりと合わせ、ぴしりと背筋を伸ばした。
 着付けが終わるころには方々に跳ねていた髪もおさまり、顔を隠すように長い前髪が流れていた。
 その髪の間からそっと覗くようにして巴恵は檜垣を見た。
「昼までに課題、やっておくわ。午後は一緒に答え合わせする。それが終わったら、庭に出てもええ?」
「いいですよ。お嬢様は本当に外がお好きですね」
 そう言って檜垣は少しだけ微笑んだ。
「昼には
花菱ハナビシを寄越しますから、その時までには課題を終わらせてください」
 それでは失礼します、と会釈をして障子戸の向こうに消えた檜垣を見送って、巴恵はふう、と息をついた。
 檜垣が消えたところでもうひと寝入りしたいところだが、そんなことをしていては言い渡された課題を終えることは不可能だろう。
 巴恵は仕方なく、檜垣が置いていった朝食に手を付けた。


 朝食を終えてから隣の書斎へ移動し、文机に向かって課題をこなしていると、あっという間に時間が過ぎてしまった。
 その証拠に、からから、と軽快に玄関の戸が開く音がして、どたどたと大きな足音が近づいてきた。
 その足音で巴恵は、もう昼か、と時を知る。
「おーっす、お嬢、元気?」
 足音とともにひょい、と部屋を覗き込んだのは、学ランを着た白髪の少年だった。短く刈った白髪、小さなメガネのレンズの向こうには、まるでウサギのそれのように真っ赤な目がきょろりと動いていた。
花菱ハナビシこそ、今日も元気やね」
「へいへいありがと」
 言いながら、文机の反対側にどっかと胡坐をかいて座った
花菱ハナビシ少年は、長い前髪の間から覗き込むようにしてじっと巴恵の顔を見た。
「なに?」
「いんや、何でお嬢は前髪切らないのかな、と思って。前、見づらくない?」
「見づらいって、うちが見る景色なんてほとんどないやん」
 小さな数寄屋造りの建物が一つ、それを取り囲む庭、そして庭の片隅には小さな小さな茶室。
 白い壁に囲まれた四角い庭が巴恵という名の少女の世界のすべてだった。
 少女は、物心ついたときからこの箱庭で育っていた。食事をはじめとした身の回りの世話をする檜垣は最初からずっと少女の傍にいたが、花菱は、いつの間にかここへやってくるようになった不思議な少年だった。いったいこの少年が何者なのか、少女はよく知らない。
 しかし、少女がこの二人以外の人間と会うことはなかった。
 時を経る感覚がなくなりそうに永い日々の中、かろうじて数えている満月の回数だけが積み重なっていくのだった。
「ね、花菱。満月の夜は、いつもお祭りの音が聞こえるやない? 遠くの方やけど、賑やかな声とか太鼓の音とかするやん」
「ん? あ、あぁ」
「うち、ほんまはお祭りに行ってみたいんや」
 賑やかな祭囃子は、巴恵の心をとらえていた。
 時折顔を見せる花菱少年以外、誰も訪れないこの場所はとても退屈だった。毎日毎日、檜垣に言いつけられた課題をこなすだけ。縦に横に、細かく線が書き込まれたそれは、ほとんどが物理学か数学の問題で、いつもこの課題演算をしている間に一日が終わってしまうのだ。
 考えを巡らせる間の穏やかな時間、そして、解けた時の満足感。それが巴恵に与えられたすべて。
 ただそれだけが繰り返される、箱庭の中の日常だった。
 もちろん、その事を不思議に思わなかったと言ったら嘘になる。
「檜垣はいつもダメやって言う。何で?」
 巴恵はそう言って唇を尖らせた。
 そんな様子を見て、花菱少年はぽりぽりと白髪頭をかいた。
「そーだねぇ、檜垣はちょっと過保護かもしんねえ。お嬢の気が他に向くのが嫌でしょーがないんじゃねぇの?」
「そうなん?」
 ほんの少し頬を染めて嬉しそうに、巴恵は長い紅髪の間からちらりと紅の瞳を覗かせた。
「あーもう、嬉しそうな顔すんなっ」
 それを見た花菱少年はぐりぐりと巴恵の頭を撫でまわした。


 本当はこのままでも幸せだったけれど。
 それでも、永遠ではいられなかった。
 『彼ら』と造りの違う自分にとって、時間は有限だったから。

 日常は突如、崩壊する。
 たとえば、その小さな箱庭に、予期せぬ侵入者があったりなんてしたときに。

 そう、簡単に崩壊する。


 課題を終え、花菱少年と談笑し、あとは檜垣が帰ってくるのを待つだけだった。
 その時。
 庭の一角に佇む小さな茶室の方で、すさまじい破壊音がした。
 ガラスが割れる音、木の板が裂ける音、そして何かが固いものに激突する音――
「何?」
 思うより先に、巴恵は腰を上げ、文机を離れていた。
 隣にいた花菱少年の青ざめた顔に気づくこともなく。
 縁側から外に出て、大きな音がした茶室の方へと駆けだしていた。

 

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